業務日誌#35

「しのご」が日々の業務で気が付いたことを、脈絡なく気ままに書き連ねています。

6年以上も前に作ったウメ酒を飲む

部屋の中、それも押入れの中の整理・清掃をしているとき、ふとウメ酒の瓶を見つけた。ウメ酒を作り、保存していたものだが、そのまま忘れて最奥部にしまったままになっていた。このところウメ酒は飲んでいないので、これを引っ張り出して飲んでみようではないか。3~4年前に作ったような気がするけど、詳しいことはまったく記憶に残っていない。

瓶に貼りつけていたラベルには、下記のようなメモが書かれていた。

標準的な作り方と比べれば梅が多く、氷砂糖が少ないぐらいか。確かたくさんのウメをいただいたこと、氷砂糖を少なくして作った記事をたまたまネットで読んでいたこと、その二つがきっかけだと思う。いろいろ知りたい人は、ネット上にウメ酒のつくり方からウンチクまでたくさんの記事があるので、そちらを検索して読んで欲しい。

作ってから6年以上を経過しているので、最初は”ハレの日”にでも飲もうと考えた。しかしながら、自分にとって一番近いハレの日とはいつかを考えても不明だし、そもそもさほどの期間を待ってもいられないので、さっそく味見をしてみる。数年も経過していると、味にカドがなく実にまろやか(グルメレポートのようなことはとても書けない)。う、うまい……。ロックにして、思わず2杯も飲んでしまった。

ウメ酒はガブガブと飲むものではないだろうし、このぐらいで納得する。

過去にもウメ酒を作っていたのだが、保存したら最低1年間はガマンする。そして開封すると味見、食前酒、寝る前のちょっと1杯などなどさまざまな理由によって飲んでしまい、あっという間になくなってしまう。だから、この一瓶が残っていたのは奇跡に近い。

自家製ウメ酒に関する記事を読んでみると、ほとんどが1年前後ほど置いただけで飲んでいる。なかには2~3年間寝かせるといった人もいるが、これは少数派。ましてや、今回のように数年以上ともなるとほとんど見かけない。それ以上は、まさにビックニュースとなる。

これ以上寝かせるようなものとなると、農家の倉庫などがほとんどで、マンション住まいではほとんどいないのではないかと考える。

今回のことを思えば、長期保存用にウメ酒を作っておいてもいよい。しかしマンション住まいで数年も寝かせておくとなれば、たぶん目につかぬような場所をあえて作り、なおかつ作ったことも忘れておかなければならない(笑)。考えるに、農家のように何棟かの建物がないと、とても理想通りのウメ酒などは作れないだろう。

何年後かの将来のためにも、本年も必ずウメ酒を作ろう。ネットだけではなく図書館のウメ酒関連本をみて、参考知識を仕入れて作戦を練っていけば、うまくできるに違いない。問題は、いままでのことを考えると、1~2年で飲みつくしてしまうことかな……。

迷惑テレホンセールス:ベルコ

こちらが忙しいときを狙うように迷惑テレホンセールスがやってくる。今回も頭がいっぱいと時間帯を狙うようにやってきた。

 

女性)ベルコと申しまして、ご主人でしょうか~(しばらくセールストーク)

自分)あの、社名をもう一度!

女性)ベルコと申します。(しばらくセールストーク)どこかにお入りですか?

自分)結構です!

女性)どこにお入りでしょうか?

自分)結構です!

女性)どこへ・・・

自分)結構ですって言ってるだろうに!

女性)そうですか・・・(※ガチャ)

 

忙しい時間帯にふざけやがって。迷惑テレホンセールスというのはこんなもんだ。普通ならもっと聞きただすところだが、電話を切られてはしょうがない。一応検索したら、2015年にあった迷惑テレホンセールスと同じかな? たぶんそうだな。

迷惑テレホンセールス「ベルコ」に反省などという考えはないのだろう

千日行リフィルで毎日の行動チェック

みんなは「千日行」というものを知っているだろうか? 簡単に言えば、真言行者や天台行者、修験者などが1000日間にわたって修行をすることを言う。自分が大学生時代、在家のための千日行を考えた真言宗の坊さんがいて、チャレンジしてみたが800日ちょっとで挫折した。

在家が対象だから、単に経典を30~40分間にわたって勤行するだけなのだが、千日行という名の通り1000日間行うわけだ。この趣旨を考えるなら「簡単なものでも、千日間にわたって行う」ということに意味があったのだろう。

たまたまラジオ番組で、千日回峰行を行った塩沼亮潤大阿闍梨が出ていたのでチラチラと聞いていた。そして「1000日間続けて行うことに意味があるなら、超整理手帳のリフィルにも1000日間のチェックリストがあってもいい」と思った。言い方を変えるなら、「石のうえにも3年リフィル」みたいなものだ。

でも、千日行リフィルといった方が、まぁカッコいい(笑)。

そして作ってみた「千日行リフィル」が下記のようなものだ。このリフィルは、本体サイトからダウンロードできる。

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見てみれば分かる通り、複雑な要素は何もない。楽器の練習、スポーツのトレーニング、英単語を毎日1個暗記するなどなど、1000日間続ければ目に見える成果が必ず出てくるに違いない。「やろうと決めたことを1000日間続ける」。ここに意味があるのではないだろうか。

いろいろと要素を複雑にすると、過去の経験から失敗の確率も高くなる。実施項目も大きく増やすと、これも挫折の可能性が高くなる。スポーツトレーニングで、最大負荷の60~80%を長期間続けると良いということを聞いたことがある。この「少しキツイかな」というレベルが、長続きして能力向上も図れる秘訣のような気がする。

そして自分なりの”千日行を実行中”といった方が、何よりカッコいいではないか(笑)。そのための超整理手帳用のチェックリフィルなのだ。

迷惑テレホンセールス:ウェブ

迷惑テレホンセールスは、ほんとに休みがないからうるさい。今度は結婚情報とかの「ウェブ」だそうだ。

 

女性)結婚相談のウェブといいますが、結婚をお考えの(えんえんとセールストーク)、このような方はいらっしゃいますでしょうか?

自分)ん? 何という会社だっけ?

女性)ウェッブ、いやウェブといいます

自分)おいおい、自分の会社名ぐらいきちんといえよなぁ~

女性)す、すみません。結婚をお考えの方は、いらっしゃいますでしょうか?

自分)で、どこにあるの?

女性)住所ですか?

 自分)そうだよ

女性)宮城県仙台市青葉区本町(ほんまち)2-1-8 第一広瀬ビルになります。

自分)本町を「ほんまち」ということは、他のところから電話をかけてきてるな。そうだろ? 「ほんちょう」というのだよ

女性)す、すみません。福岡のコールセンターから電話をかけているもので。電話番号もいいましょうか?

自分)あぁ、教えてくれ

女性)022-722-1122になります。結婚をお考えの方はいらっしゃいますか?

自分)ホームページはあるのか?

女性)はい、ございます

自分)だったらホームページを見ればいいじゃないか。そうだろ?

女性)しかし・・・

自分)おたく以外にも、結婚相談所は別会社も含めればくさるほどあるじゃないか。それで問題があるのか?

女性)それでは失礼します(※ブチッ)

 

 迷惑テレホンセールスってのは、こんなもんだ。迷惑テレホンセールスなのに、相手から先に電話を切った。普通は自分から電話を切らないものだが、頭に来ていたのかな(笑)。こちらも迷惑テレホンセールス・オペレーターの名前を聞くのを忘れていたぜ。

「超メモ術」を広めるための参考サイト

「100円ノート超メモ術」は、考案者がそのやり方・使い方の本を出版してからその解説サイトも本の紹介だけとなり、何もかもが分かりにくくなった。いまの公式サイトは本の紹介だけで、方法の解説からインパクトまでに至るまで非常に乏しい。とっかかりとなる画像や解説がサイトになければ、プラスアルファを期待して本を買おうという気持ちになる人もあるまい。

むかしの紹介サイトは、少し怪しげだった。でも、読んでみるとすぐにでも実行してみたくなるほどに気持ちが動き、まさに実行してみた人だけが非常に簡単な改造をノートに施しただけで”ノート式データベース”を構築できることになる。単純な仕組みが、一番便利だという代表例みたいなものだった。

ほかにもメモ術のさまざまな本も読んでみたが、面倒な方法であったり複雑な構成を持っていたりするので一人で実行するには荷が重い。部下や助手などがいれば簡単に展開できようが、膨大な作業を自分一人でやっているようでとてもいやだった。

そこで考えた。便利な方法は勝手に広めればよいので、きっかけとなった怪しげなサイト(?)を自分で再発見し紹介すればよい。

  • 100円ノートの「超メモ術」
    やはり、これが原点のサイトといえるかもしれない。疑問があるのなら、自分でいろいろ試してみて考え、調べてみればよいと思う。自分なりの法方法で展開している例のほか、各種の工夫を掲載しているサイトも沢山ある。なにより自分で試して、自分で考え、自分で展開した方が、自分にマッチしたスタイルなのでいいと思うのだが……。

レオナルド・ダ・ビンチも、たくさんのアイデアやメモ(覚書き)、本の抜き書きからデッサン、日記などなどにいたるまで何でもかんでも書いていた。簡単な伝記を読んでみると、ダビンチの欠点は整理が悪かったらしい(笑)。まとめるとなると、そのメモを探すのに時間がかかったらしく、ノートのように閉じられてまとまったスタイル、簡単でもインデックスのようなものがあれば便利だったのではないかと思う。

自分のやり方のスタイルを確立したのは良いとして、メモの量が膨大に増えてきてもその整理法を考えなかったのが難点なのだろう。

最近のメモ術やノート術に関する本をときたま眺め、参考になりそうな新たな方法があるかどうか見ている。近年は「思考・発想にパソコンを使うな 「知」の手書きノートづくり」などと言う本を発見した。ダビンチの時代は手書きであるのは当然だが、現在でも発想などのメモやノートを書き残し記憶しておくなら、やはり手書きなのかもしれない。

手書きなど古くさいという人には、上記の本の前書きに書いてあったことが参考になるかもしれない。使い分けが重要なのだな。

大量の情報収集・整理にはデジタル、思考・発想などの頭脳労働には手書きノートを使えば、最大限にあなたの能力が引き出せるはずだ。

インターバルウォーキングの実践/9ヵ月目の途中経過

インターバルウォーキング(IW)もしくはインターバル速歩を実施して、いまや9ヵ月目が終わろうとしている。5ヵ月目を過ぎてからの成果は、1年後に書くことになっていた。書籍にもそう書いてあったのだが、あえて書いておきたい。

実のところ、速歩はしていない。速歩のパートは、ジョギングになっているのだ。だから、ウォーキング3分、ジョギング3分間のくり返しで、それ以外の展開方法はインターバル速歩の書籍に書いてあったとおりである。ともかく速歩のパートは、ジョギングに切り替えた。

とにかく、速歩がのんびりし過ぎて耐えられない。5ヵ月目を過ぎたころだろうか。坂に差し掛かると、「坂では走った方が良いと思うよ」と心の声が聞こえてくる。速歩のパートにかかっているなら、その坂道はジョギングペースにしていた。心の声に素直に従っていたわけだから、問題はなかったと思う。

そして9ヵ月目に突入したあたりで、再び心の声が「速歩の部分は、すべて走れ! 走るのだ!」と命令してきた。そして速歩パートの3分間は、すべてジョギングペースに切り替えた。マラソンやトライアスロンをやっていたとはいえ、やめてから10年以上も経過しているので、走るといってもまだまだジョギングペース。でも、知らぬうちにウォーキングとジョギング組み合わせたインターバルで走るようになってきた。

このIWを行う前は、体調を元に戻すのに1年以上の時間はかかるだろうと考えていた。ところが、このIWのおかげで9ヵ月目あたりに復活の兆しが見えてきたのはうれしい。そして指示が心の声ということは、身体からの要望ということだろうから、自分の意志で無理をしているわけではない。

それにしても、「インターバルウォーキング(インターバル速歩)は体調管理に非常によろしい」という記事はネット上にくさるほどある。しかし、「インターバル速歩をやっています」あるいは「インターバル速歩を1年やりました」というBlogなどでの実践レポートともなると、非常に数少ない。ましてや1年間も続けていたのなら「1年やりました」「体調が良くなった」だけではなく、走行距離やスピードなど自分の行動や意欲、記録などで語れる部分はないのだろうか(?)。

スポーツトレーニングから離れて何年も経過しているので、再び行うにはむかしの記憶や記録、トレーニング方法などなどは頭からきれいに消している。そして自分の体力レベルは、自分が考えている体力より一段階下に設定する。

この一段階下に体力を設定しておくというのは、トライアスロントレーニングをやっていたときのマフェトン理論の方法だ。自分をワンランク下げて考えるというのは、簡単だが意外と難しい。いまごろになって再び役に立つとは……。

結論。IWの現状は健康運動的なものだったが、だんだんスポーツトレーニングへの切り替わり時期に差し掛かっているようだ。せっかくここまでウォーキングと速歩でガマンしてきたのだから、ウォーキングとジョギングでしばらくは耐えよう。そうすれば切り替えの時期も再び身体の心の声が教えてくれ、本来のインターバルトレーニングのようにハードなランニング、ソフトなジョギングでつなげられるようになるだろう。

「サンタクロースはいるんだ」の記事を再び

この季節になってくると、海外のサイトはもちろん、海外のDIY関連サイトでも趣向を凝らしたクリスマス飾りの記事が満載だ。いまでも気になるのは、海外での新聞記事で、なかでも1897年にニューヨーク・サン紙に掲載された社説「サンタクロースはいるんだ」。青空文庫でも読める。

気になるのは、子供の気持ち、考えなどへの配慮だ。いまの時代なら、理論的なものなら幼児教育などで確立されていようが、この記事はただ新聞で語りかける。幼児教育などが十分に確立されていないであろう時代に、相手に語りかける手法があったのだろうか。この記事が、いまでも残っている秘密はこんなところにあるのかもしれない。

いまでもあるのかは分からないが、ひところラジオ番組で「こども電話相談室」などという番組があった。Wikipediaで見る限りでは終わったようだが、これなども長期間にわたって続いていたのだから、子供に語りかける現代的な手法だったといえるのではないか。なにやら、この新聞記事と何やら共通する部分がありそうな気がする。

理屈はともかく、いちいち青空文庫で見るのも面倒なので、自分のサイトでも見られるようにしておきたい。

サンタクロースはいるんだ
YES, VIRGINIA, THERE IS A SANTA CLAUS

ニューヨーク・サン紙社説(担当:フランシス・ファーセラス・チャーチ) The New York Sun (written by Francis Pharcellus Church)

大久保ゆう

 

<ニューヨーク・サン新聞 1897年9月21日 社説欄>

 本紙は、以下に掲載される投書に対してただちにお答え申し上げるとともに、このようにまっすぐな方が読者におられることを、心から嬉しく思います。

「こんにちは、しんぶんのおじさん。わたしは八さいのおんなのこです。じつは、ともだちがサンタクロースはいないというのです。パパは、わからないことがあったら、サンしんぶん、というので、ほんとうのことをおしえてください。サンタクロースはいるのですか?

                   ヴァージニア・オハンロン」

 

 ヴァージニア、それは友だちの方がまちがっているよ。きっと、何でもうたがいたがる年ごろで、見たことがないと、信じられないんだね。自分のわかることだけが、ぜんぶだと思ってるんだろう。でもね、ヴァージニア、大人でも子どもでも、何もかもわかるわけじゃない。この広いうちゅうでは、にんげんって小さな小さなものなんだ。ぼくたちには、この世界のほんの少しのことしかわからないし、ほんとのことをぜんぶわかろうとするには、まだまだなんだ。

 じつはね、ヴァージニア、サンタクロースはいるんだ。愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、サンタクロースもちゃんといるし、そういうものがあふれているおかげで、ひとのまいにちは、いやされたりうるおったりする。もしサンタクロースがいなかったら、ものすごくさみしい世の中になってしまう。ヴァージニアみたいな子がこの世にいなくなるくらい、ものすごくさみしいことなんだ。サンタクロースがいないってことは、子どものすなおな心も、つくりごとをたのしむ心も、ひとを好きって思う心も、みんなないってことになる。見たり聞いたりさわったりすることでしかたのしめなくなるし、世界をいつもあたたかくしてくれる子どもたちのかがやきも、きえてなくなってしまうだろう。

 サンタクロースがいないだなんていうのなら、ようせいもいないっていうんだろうね。だったら、パパにたのんで、クリスマスイブの日、えんとつというえんとつぜんぶを見はらせて、サンタクロースをまちぶせしてごらん。サンタクロースが入ってくるのが見られずにおわっても、なんにもかわらない。そもそもサンタクロースはひとの目に見えないものだし、それでサンタクロースがいないってことにもならない。ほんとのほんとうっていうのは、子どもにも大人にも、だれの目にも見えないものなんだよ。ようせいが原っぱであそんでいるところ、だれか見たひとっているかな? うん、いないよね、でもそれで、ないってきまるわけじゃない。世界でだれも見たことがない、見ることができないふしぎなことって、だれにもはっきりとはつかめないんだ。

 あのガラガラっておもちゃ、中をあければ、玉が音をならしてるってことがわかるよね。でも、目に見えない世界には、どんなに力があっても、どれだけたばになってかかっても、こじあけることのできないカーテンみたいなものがかかってるんだ。すなおな心とか、あれこれたくましくすること・したもの、それから、よりそう気もちや、だれかを好きになる心だけが、そのカーテンをあけることができて、そのむこうのすごくきれいですてきなものを、見たりえがいたりすることができる。うそじゃないかって? ヴァージニア、いつでもどこでも、これだけはほんとうのことなんだよ。

 サンタクロースはいない? いいや、今このときも、これからもずっといる。ヴァージニア、何ぜん年、いやあと十万年たっても、サンタクロースはいつまでも、子どもたちの心を、わくわくさせてくれると思うよ。

 

※ そのあと、ヴァージニアはニューヨークの学校の先生になって、四七年間子どもたちを教えつづけたそうです。

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翻訳の底本:The New York Sun (1897) "Yes, Virginia, There is a Santa Claus" 

上記の翻訳底本は、著作権が失効しています。

  2002(平成14)年10月1日初訳

  2011(平成23)年12月9日改訳

※この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス」(http://creativecommons.org/licenses/by/2.1/jp/)によって公開されています。Creative Commons License

上記のライセンスに従って、訳者に断りなく自由に利用・複製・再配布することができます。

※翻訳についてのお問い合わせは、青空文庫ではなく、訳者本人(http://www.alz.jp/221b/)までお願いします。

翻訳者:大久保ゆう

2014年3月24日作成

青空文庫収録ファイル:

このファイルは、著作権者自らの意思により、インターネットの図書館、青空文庫http://www.aozora.gr.jp/)に収録されています。

これを読んで、どう思うか、どう考えるかはその人次第。自分だって、理屈もなくただ心に残るだけなのだった。